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イスタンブール歴史地区

  1985年登録 / 文化遺産

ビザンティオン、コンスタンティノポリス(コンスタンチノープル)、そしてイスタンブール。時代を追うごとに次々と名を変えてきた、かつての3大帝国の帝都。世界で最も多く侵略された都市の一つである。
イスタンブールは、ボスポラス海峡をはさんだアジア(アナトリア半島)側とヨーロッパ側の両方にまたがっており、首都アンカラを上回るトルコ最大の都市。

324年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はローマ帝国の首都ローマに見切りを付け、ビザンティオンを新首都に定めた。その後、従来の城壁よりも2km西に、コンスタンティヌスの城壁を築き、コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と改名。 「コンスタンティノポリス」とは「コンスタンティヌスの町」を意味する。 そしてキリスト教徒によるキリスト教の国づくりが始まる。 こうして、コンスタンティノープルが正教会の中心地となり、それは現在も変わらない。
395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都となり、413年にはテオドシウスの城壁が完成。 コンスタンティヌスの城壁から更に西へ2km伸ばす。
こうしてコンスタンティノープルは東西交易路の要衝として繁栄し、1453年の陥落まで難攻不落を誇った。

1453年、メフメット2世率いる10万ものオスマン帝国軍がコンスタンティノープルを包囲。 オスマン側は大型の大砲を用い、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な作戦で攻撃を行なった。しかしながら、コンスタンティノープルの防壁は大変な防御力を誇り、東ローマ帝国軍はわずか7千の兵力だったにもかかわらず、2か月に渡って抵抗を続けた。 しかし5月29日未明、オスマン帝国軍は総攻撃を開始。城門からついに城内へと侵入。
こうして、1000年余も繁栄を築いたコンスタンティノープルはついに陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世は乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。

その後、コンスタンチノープルはオスマン帝国の首都になり、街の名はイスラム教の名称「イスタンブール」へと改名される。

イスタンブールで最も古い地域は、金角湾の西と南に広がる旧市街。歴史的建造物が集中し、見所は大変多い。
トプカプ宮殿は15世紀中頃から19世紀中頃まで、オスマン帝国の君主である歴代のスルタンの住居であった豪華な宮殿。増改築を繰り返しながら現在の姿になっている。

スルタンアフメット・ジャミィは、1609年〜1616年の7年もの歳月かけ、当時の王、スルタン・アフメット1世によって建造。6本のミナレット(尖塔)を持つモスクは世界でもここだけ。モスク内部の壁には美しい青と白のイズニックタイルが約21000枚で飾られている事から、通称ブルーモスクという名で呼ばれる。

スレイマニエ・ジャミィは、オスマン帝国最盛期の第10代スルタン、スレイマン1世により1550年〜1557年にかけて建てられ、イスタンブールにあるモスクの中で最も美しく、トルコ建築の最高傑作の一つと言われる。

アヤソフィア(アギア・ソフィア大聖堂)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)時代である360年に、コンスタンティヌス帝の子コンスタンティウス2世が建設し、537年に再建。

東方正教会の大聖堂として建てられ、帝国第一の格式を誇る。また、ビザンティン建築の最高傑作とも言われる。
オスマン帝国がビザンティン帝国を滅ぼした後にモスクへ改装。その際モザイクを壊さずに上から漆喰を塗った。1931年、わずかに剥れた漆喰の下から大聖堂時代のモザイクが発見された。

グランドバザールは、15世紀以来の歴史を持つ。狭い路地が複雑に入り組んだ迷路ようなバザールには4000軒以上の店がひしめき合い、区画ごとに金細工、絨毯、皮革製品、陶磁器やトルコ工芸品、お土産屋が集まる。

カーリエ博物館はテオドシウスの城壁のすぐそばに位置し、キリスト教のコーラ修道院付属聖堂として11世紀に建設された。14世紀までの間に増改築されてきたが、オスマン帝国の時代にはモスクへ改装。イスタンブールではアヤソフィアに次いで重要な遺跡で、内部の壁はとても素晴らしい14世紀のフレスコ画やモザイクで飾られており、これらはビザンチン美術の最高傑作とも言われる。

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