ピサのドゥオモ広場

  1987年登録 / 文化遺産

現在のピサを最も有名にしているのは、8階建て円柱状にたつロマネスク様式のピサの斜塔である。この建物は後述のドゥオモ(大聖堂)の鐘楼として建てられたもので、大きく東南に傾いた姿からピサの斜塔として知られるようになった。

1173年に建設が始まったが、アルノ川の土砂が堆積して出来た土地柄、土壌がやわらかかったが、建築家(ドイツ人と思われる)がそれを知らずに杭打ちをすることなく、また、基礎が浅すぎたため建設途中から傾斜しはじめ、一旦工事は中断。しかし、塔の中心をずらして建築すことで、安定をたもてるとして工事を再開。完成はしたものの、傾斜角度は年々大きくなっていた。
1990年、全体の構造が不安定になり、観光客の入場が禁じられ、2001年6月まで塔の基礎を安定させる工事が施された。同年12月から再び一般公開されている。

ピサ式のドゥオモ(大聖堂)は壮大な大理石のロマネスク様式で1063年に建設が始まった。資材には多くの戦利品が使用され、当時のピサ共和国がどれだけの勢力を持っていたかを示す。

正面ファサードのロマネスク装飾は見事。内部装飾も豪華であり、その様式から東方文化の影響を受けている(つまり海洋国家であった)ことが伺える。
上記斜塔の方が知名度は高いが、建築学的にはドゥオモの方が格段に格上である。
1153年に着工した洗礼堂は、ドーム型のロマネスク様式建造物だが、豪華な装飾は14世紀ゴシック様式である。

11世紀、ピサとその同盟都市ジェノバはサルデーニャ島やコルシカ島からイスラム教徒を追い払った。12世紀〜13世紀初めにピサは通商上の一大勢力となり、ジェノバと商業上の戦争を幾度なく引き起こした。

ルネサンス時代のイタリアで起こったゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の政治抗争ではギベリンに属し、ゲルフはピサの貿易を支配しようとしていたフィレンツェに率いられていた。
1284年、ジェノバとの海戦にやぶれたピサは弱体化し、1406年にはフィレンツェに降伏した。
ピサの市民にはガリレイ、彫刻家のピサーノ父子とアンドレア・ピサーノがおり、画家のピサネロもこの市の出身とされている。