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カルタゴ遺跡

  1979年登録 / 文化遺産

カルタゴ遺跡は、チュニジアの首都チュニス近郊、地中海に面する位置にある遺跡。
伝承では紀元前814年、フェニキアの商人がカルタゴの街を創建したという。

カルタゴは数世紀の間に強大な都市国家へ成長、北アフリカの大部分を支配する。更に、イベリア半島の南部、サルデーニャ島、シチリア島、マルタ島、バレアレス諸島までも支配した。 フェニキア人の優れた航海術を背景にして周辺諸国を征服した結果、カルタゴは交易を中心にした、強大な海上帝国となる。

紀元前264年、ローマ帝国とカルタゴの間にポエニ戦争が勃発。

脅威になりつつあったローマ帝国と地中海の覇権を巡って血みどろの争いを繰り広げ、第1次ポエニ戦争(紀元前264〜紀元前241)は、ローマ海軍に敗北。その結果シチリア島を手放した。

第2次ポエニ戦争(紀元前218〜紀元前201)では、名将ハンニバル率いるカルタゴ軍が、約40,000名の兵士と30頭の戦象を率い、イベリア半島よりアルプスを越えて、イタリアまで侵入。カルタゴ軍がイタリア北部に現れたという知らせはローマに大きな衝撃を与えた。 ハンニバルは途中、ガリアの部族の支援を受け、ローマへ向けて南下。ローマに対して快進撃し、各地でローマ軍を撃破。瞬く間にハンニバルは名声を挙げる。
しかし、ローマ軍が北アフリカに侵攻。これによりカルタゴは、南イタリアに駐留していたハンニバル率いるカルタゴ軍を本国へ呼び戻す。
紀元前202年10月19日、チュニジア北部に位置するザマで、カルタゴとローマが激突。 結果、ハンニバルの無敵神話は崩れ、カルタゴは惨敗。ザマの戦いでで敗北したカルタゴは、ヌミディア領、イベリア半島、シチリアやサルディーニャなど多数の島々を失うことになる。

その後カルタゴは、二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、貿易によってかつての力を取り戻しつつあった。前回の戦いで多大な損害と恐怖心を残したローマにとって、カルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマ内では「カルタゴを徹底的に破壊すべきである」との声が高まっていく。
そして最後の第3次ポエニ戦争(紀元前149〜紀元前146)が始まる。スキピオ(小)率いるローマ軍がカルタゴに侵攻し、カルタゴは3年間持ちこたえるものの、街を完全に破壊される。ローマ軍は侮蔑(ぶべつ)の意味を込め、また作物が育たないように破壊した街に塩をまいたという。その後25年間、人が住むのを禁じられた。

この戦いによって、残されたカルタゴの全領土はローマに併合。カルタゴの全住民は戦死、又は奴隷となり、カルタゴは滅亡する。

現存するカルタゴの遺跡は、その後カエサルが再建させた植民都市のものである。

これほどまでに繁栄をしていたカルタゴであるが、その芸術はエジプトやギリシャ、本国のフェニキアを模範としており、カルタゴ独自の芸術はなかった。更に、文学についてもわずかな出土品しか残されていないため、カルタゴ人の生活や政治、言語などは謎が多い。