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ウィーン歴史地区

  2001年登録 / 文化遺産

ウィーンの歴史は古代ローマ時代までさかのぼり、ローマ帝国の東方を守り固める重要な基地となるが、5世紀にローマ帝国は滅亡。
ウィーンが再度動き出したのは1135年、バーベンベルク家がウィーンを支配したことによる。 特に12世紀後期の支配者であったレオポルド6世は、オーストリア大公の地位も継ぎ、栄光に満ちたウィーンの最盛期を向かえる。
ウィーンには多くの吟遊詩人や騎士が集まり、文化や芸術が開花するのである。
しかし、270年間12代に渡りオーストリアを収めたバーベンベルク家の後継ぎが13世紀初期に途絶え、混乱を招く。

代わってウィーンを治めたのが、ハプスブルク家のルドルフ1世である。歴代のハプスブルク家の皇帝は例外を除きウィーンに都を置き、神聖ローマ帝国を収め、ヨーロッパで強大な勢力を築き上げる。このハプスブルク家による統治は640年に及び、ハプスブルグ帝国の異名を持つに至る。

14世紀にはシュテファン大聖堂やウィーン大学が完成、1498年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世により、宮廷礼拝堂少年聖歌隊としてウィーン少年合唱団が創設。

14世紀にヨーロッパへ進出し始めたオスマントルコは、次第に脅威となり、1529年、オスマントルコによってウィーンが包囲(第1次ウィーン包囲)。さらに、1678年にウィーンの町はペストが流行、1683年には再度オスマントルコによって第2次ウィーン包囲を受け、多大な犠牲を払うもオスマントルコ軍を撃退する。
脅威が過ぎ去った18世紀には建築、絵画、音楽、彫刻、演劇などの各分野が賑わい、バロック建築のブームが起こり、女帝マリア・テレジアの時代にはシェーンブルン宮殿が完成する。

しかし、1914年、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公がサラエボでセルビア人によって暗殺。このサラエボ事件がきっかけとなり、第1次世界大戦が勃発し、敗戦の結果に終わる。これによってハプスブルク家の支配が終わりを遂げたのである。

ハプスブルク王朝の帝都であったウィーンの旧市街には様々な時代に立てられた様々な建築様式の建造物群が現存し、その中でも最も重要とされるバロック建築による歴史的建築、美術館や博物館など、見所が多い。 また、近代以降のウィーンではモーツァルト、ベートーヴェンをはじめ、多くの作曲家が活躍するなど、「音楽の都」とも呼ばれ、人々を魅了する。

オーストリアの世界遺産
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